20190702 メモより 凪待ち

自分の身体感覚が分からない。はっきり分かることなどあるのか分からない。ただ、その時その時に、自分で選択して、取り敢えず、決断して行くだけ。小説でも書こうかな、なんて、また何か拗らせてしまった人のように考えが浮かぶ。
妄想が妄想過ぎて、辛い。現実での俺は生き場所を失っているし、ダメな使えない人間だとしか思えない。それは、色々やることとか気付きながら、なんもやろうとしないところとか。他人と自分はあくまで、どこまでも果てしなく他人であることを最近知った。常に、いつ頃からか、他人に自分の内面を投影しながら生きてきた。投影した他人を馬鹿にしたりして、自尊心を保ってきた節があった。でも、全部自分の事なんだよな。どうしてこうなったのか本当に分からない。疲れた。常に疲れてる。眠い。何も出来ることがない。覚悟もないし、流れで生きている。選択を常に間違えている。自分で流されて、流された所で、苦しんで生きている。
映画「凪待ち」は、香取慎吾に感情移入しながら観ていた。依存症というのは見ているものにとっては到底理解できないものがあるな。俺も依存心がスゴくあるタイプだから、香取慎吾の感情が伝わってくる。依存することで、自分の心が休まったり、自分の事が大きく見えて心地良い状態だったりするもんね。引きこもりってある種の依存症だから。俺はそう思うよ。薬酒タバコセックスギャンブル、そういった事をやらない奴が生活していく事を放棄してやるもの。
香取慎吾の、自分と分相応な場所と思えないところにいる事の苦しさ、は分かる。生きるって苦しい。仕事ってめんどくせー。でも、結局仕事のめんどくささ、やりたくない事をやってる事の違和感。でも、みんなそうだよ、とか、じゃあ、ほかに何やって生きていくの、とかさ。 そういう常識的な何かに囚われてる。失敗したから。大いに。何も言い訳できない。失敗とも言えない。何もしていない、失敗。全部自分で受け止めなくてはいけない。こうやって、いつ間にか映画の中の香取慎吾と、自分がシンクロしていく。イクオの描かれていない内面を自分の内面で補完しながら、アイツは俺だ、と思いながら心が苦しくなっていく。でも、アイツには彼女がいるじゃないか、連れ子の慕ってくれる娘がいるじゃないか。ギャンブルしてしまくって、義理の親父の大事な船を売ってできたお金までをすって、俺はダメなんだよ、とか言って叫べるだけ羨ましい。あんなにボコボコにされるだけ羨ましい。そうやって気付くと、俺の方がより虚しくなっていく。震災、川崎、分かりやすい記号の若干の違和感や、この物語にはメタファーがあるのか、とか、イチャンドンのバーニングの事が頭に浮かんだりしたり、それぞれ描き方があるようなーとか当たり前の事を考えてみていたけど、そんなことが、どうでもよくなっていった。香取慎吾を観に来たら、そこには、俺のよく知ってる人が出ていた。
俺は神経症だろう。不安神経症。病院行った方がいいんじゃないか。俺は何かやらかして、なんか早死にしそうだよなぁって思っちゃってるよ。自分が怖い。不安が強いんだろうな。ちょっと。だから、特別の事でもなんでもないんだろうけど。常に、現実から逃げ出したくて妄想してるな。あんなことやこんなことも出来るんじゃないか、とか。
でも、お前はフツーの人間なんだよ。